「デリダ 脱構築と正義」高橋哲哉著 講談社学術文庫
参考資料 「権利のための闘争」イェーリング
「デリダ」を選択した理由は植民地主義と不平等・ 不公正を追及したデリダの伝記であるため。 デリダ自身が植民地の出身でその名前の「選択」 においても植民地主義からの要請が伴うものであった。 アメリカ式のジャッキーかフランス式のジャックか。 そのような体験を経て言語・暴力・法・正義について論じている。
第二章 形而上学とは何か
プラトン、アリストテレスを用いて言語の優位、 下位について論じているが、 ここで重要なのは基礎知識としてギリシア哲学の発達したあの時代 というのはバーバルコミュニケーション、喋る・ 話す方法が書き言葉より優位であったということである。 それをデリダはパロールと名付け改めて可視化している。 エクリチュール、 書かれた言葉が記録として有効であるにも関わらずパロール話され た言葉が優位であるのは識字率が高い時代と場所に限りがあり、 話す言葉が通じる相手というのは周辺を植民地化して拡大していっ た国家のありかたの反映と言えるのではないだろうか。 現代においては言語札の問題に通じるものであるが、 プラトンたちの時代と今の時代の言語札、 または言語札に匹敵するような言語の剥奪を同列には論じることは 難しいだろう。しかし、 プラトンたちは一定の地域の中心にいる人たちでその言葉が通じつ ことを当然視していてもおかしくはないし、 また古代ギリシアでは街頭演説を哲学者が行うのが常であったので 話言葉が通じない相手は下位と置かれることは当然のことであろう 。
帝国ではない国家は存在しないということの説明をこのような大昔 の今でも私たちの読書体験などに影響を与えるギリシア哲学からも 見出すことができる。
話し言葉にも書き言葉にも言えることであるがこれらを通じるよう に伝えるというのは論理的である、 整然とかたづいていることが重要視される。 整然としない言葉を発する者を他者として排除・ 隠蔽してきたの歴史を暴いたのがデリダであろう。
メモをとる、そのメモはパロールかエクリチュールか。 書いたことで記録になっているのでエクリチュールではないかとい う話が参加者同士で行われた。しかし、 読まれなければエクリチュールは成立しえない側面もある。 しかもメモをとる場合他人に見せるメモと自分が見るためのメモは 記録として同じものになるのだろうか。 この部分はこのブログを読んだ方からもご意見をいただければと思 う。 自分用のメモは後で読んだら字が汚くて読めないということもあり 、 エクリチュールでもパロールでもない何かになっていることがある 。 記号は記号として共通認識があるから記号は機能するということも 言語を考えるにあたって外せない要素であるだろう。
言語札の話題が読書会で出た。言語札は朝鮮、沖縄と日本。 海外に目を向ければイギリスもフランスも実施しており相手を支配 するのに最も有効な手法であると同時に道具なのだろう。 言語札に匹敵する状況というのは現在も続いており標準語でないと 受験ができないということも言語札の延長にあるものではないかと 思う。地方で育った人は話し言葉は地域の言葉で、 授業は標準語で受けた人がほとんどではないだろうか。 年配の人物が今はテレビの影響でみんな方言を使わなくなったと嘆 く声がテレビで放送されることがあるが、 テレビよりも授業の影響の方が大きいように思う。なぜならば、 学校教育は将来この社会の構成員として生きていくための訓練場と しての要素が大きい。 言い換えれば将来を見越して社会からの要請に応えるように人々を 訓練する場といえる。 そこで標準語化が進められばいくら子どもであってもそれに応答す る、応答せざるを得ないであろう。標準語の他に選択肢はない。 時々方言の授業、 外国人の児童生徒向けの外国語の課外授業が行われるとニュースに なるのはそれが標準ではない、 終焉化されている言語が可視化されているからではないだろうか。
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